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ミュージカル劇団『夢桜』団員ブログ&稽古内容の報告 
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 10月4日・5日に開催されました。第29回を数えます。〈開会式/ミュージカル〉というプログラムの中で参加し、舞台で『光る海序曲』を発表しました。今回、ぼくは「東方の王子」という歌の場面への出演です。
 全体としては、本番が1番上手くいったのではないかと思います。舞台のソデにいた団員も、そう感じたそうです。ぼくは出演する場面があったので、作品の全てを感じていたわけではありません。でも最後の台詞に、今までで最高の響きを感じて、上手くいったと思いました。…違うかな。
 ぼくは(一応)、芸術家であり、1人の表現者でありたいと考えています。それで今回は、いつもと少し違った、演技への接近が出来ないものかと取り組みました。結果、あまり手ごたえはありません。ただ、初めてだったと思うのは、自分の演技が出来ないのを、人の責任にしたことです。
 今回は出演場面が限られていたこともあって、悪くない意味で、適当にやったところがあります。1つの役が成立するためには、自分の表現と他人の表現が必要になるはずです。ぼくの役が成り立たないのは、周りにも原因があるはずだ。と思ったんですけど、やはり原因は自分でしたねぇ。
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 台詞も通らず、歌声も響かず、身体は踊らない、立ちまわり行くのは下手、正直だけか、お決まりどうり、稼ぎがない情けない暮らし、だからぼくは、この人生の大根役者、そうだ、可能性だけは誰にも負けない。…。
 ぼくは 役者の端くれ 。そうありたいと思うようになってから、日常的に演技を意識するようになりました。たとえば、怒ってなくても、一瞬、こんなふうにすると怒っているように見えるかなと考えて、試してしまうんですね。本心を上手く伝えきれていない事も多いかもしれません。
 この間、初めて会った人とキャッチボールをする機会がありました。そのときに、こんな感じで言われたんです、「何だか投げる動作が芝居がかってるね」。しまった、と思いました。ぼくたちは本物を目指します。それは日常の自然な動作がもとになるはず。それが、あやふやになった。
 もちろん、人はそもそも演技をしているという考え方もあります。家では家族を、学校では生徒を、稽古では劇団員を演じている。ぼくの場合、演技を意識し過ぎて、自然な自分をどこか見失ってしまった気がします。ぼくがぼくを演じている、そんな感覚。ぼくは、大根(の端くれ)です。
 8月2日と3日に開催されました。「夢桜」は2日、午前と午後に1回ずつ、作品を上演しています。祖父母が来ていた人もいたみたいで、終わった後、さくらホールのホワイエで話をしている姿を目撃しました。
 今回、実年齢より上の役を演じる機会を得ていたんですけど、あんまり上手くいきませんでした。知り合いの感想は、若い人に見えたよ、です。自分としては、少し歳を取った人を表現したかったんだけどな。自然な表現と、わざとらしい表現、この辺りに悩みすぎた感じがあります。
 この作品は、外国が舞台です。ただ、皆は気持ちを表に出さなかった、という辺りは日本っぽい。ムーニーだけが自分の気持ちをはっきり口に出していましたね。ある意味では、あの考え方って合理化ですけど。
 ぼくが思ったのは 後悔先に立たず というやつです。あの時、ああいう演技をしていたら、第2場はもっと良くできたかもしれないのにな。そう思わないで済むように、何でもやってみなければと思いました。でもまあ、演劇は難しいですよね。駄目なら駄目と言ってやればよかったのに誰も言ってやらなかった。…言われないと気付けない場合が多いもんなぁ。
 僕は舞台に関わる活動をしていながら、舞台で上演される作品を見る機会はあまり持っていないです。映画だったら、ある程度は見ているんですけど。(舞台より、映画鑑賞に力を入れようかなぁ、という気持ちもあります。)経済的な事情もあるし、舞台はそのうち増やしていきたいです。
 舞台は俳優、ドラマは脚本、映画は監督、に特に大きく左右される、みたいな表現を聞いたことがあります。いまいち、その違いがよく分かっていなかったんですけど、この間、少しだけ分かった気がしました。舞台において、足元でざらつく砂を感じれるのは、俳優だけだと思います。
 たとえば、船に乗っている。僕には、自然にゆれてくる状態と、自分からゆれる状態の境界が、よく分かりませんでした。時間を掛ければ、感じられるものなんだろうか。僕の1年を愛ではなく、稽古で数えたら、たいした量にはならないと思います。もちろん、それで精一杯なんですけど。
 劇団「夢桜」って、思っていたより 恥かしがりや が多い。知りませんでした。何か、みんな同じように頑張ってるんだなと思います。見せ物ほど素敵な商売は無い。もう少し、劇団に時間を使うようにしてみよう。
 2008年4月6日、その場でピアノが演奏されながらの上演でした。とりあえず、歌唱力や(上手側の)照明については置いときます。僕が大人の1人として作品を見るとき、ちょっと痛くなるところがあるんですよね。
 アニーは幸せを見つけます。なぜ、幸せを見つけられたのか。もちろんアニーの性格も関係があります。でも、重要なのは、アニーが大人への強い信頼を持っていたということです。あの時代、子供は大人に対して不満や不安を感じていたと思います。時代を作ったのは大人だからです。
 他の子供たちとアニーの違いは、大人への強い信頼でした。それは、アニーが歌う 明日 を意味する曲に表れています。明日になるとどうなるのか。明日になれば成長する、つまり大人になるということです。あの歌を聞かなければ、グレースがアニーを選ぶこともなかったと思います。
 (特に初期の台本に関してですが、)大人への信頼は親への信頼でもあります。僕は最後まで、アニーは両親の生存を疑っていなかった気がしました。両親の死ではなく、ウォーバックスを信じたのだと思います。冒頭のアナウンスを聞く時、後の時代を考えて何が出来るのか、と思います。


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